釜口山長岳寺・長岳寺五智堂
釜口山長岳寺
長岳寺は柳本町の東方釜口(かまのくち)山にあって俗に釜口のお大師さんといわれ、親しまれている。
釜口の名は日本武尊の十男釜見王に因んだものといわれるが、鉱山の口・塚穴・瓦釜などの異説もある。
当寺は阿弥陀如来を本尊とし、真言宗で、江戸時代は興福寺大乗院門跡末金蔵院に属していたが、明治初年から大正末ごろまで高野山金蔵院、その後高野山金剛峯寺末となった。
第53代淳和天皇の勅願によって天長元年(824)6月、空海(弘法大師)が釜口氏の廟所に精舎を建て真言道場として開いた。このことは『大和国陳迹名鑑図説』に出ている。「長岳寺金剛身院旧記」にも「当山開基者弘法大師五十一才之開基也則人皇五十三代淳和帝天長元年歳次甲辰夏六月也云々」とあり、また「伽藍開基記」にも「和州釜口山長岳寺者以二高野大師一為二開山始祖一云云」とある。
当寺、普賢院記録によれば嘉禄元年(1225)8月12日、西大寺の思円(興正菩薩)も釜口別院律家の霊山院の阿闍梨静慶に不動・弥陀・胎蔵秘道場観を受け、同年9月24日許可を受けている。ついで弘安4年(1281)10月1日霊山院において「七昼夜不断陀羅尼」を発願し、同月2日に本堂において梵網経十重古迹を開講した。中世には広大な寺領を有し、室町時代の乱世には楊本(やなぎもと)氏の外護に預かったが、応仁の乱、また文亀3年(1503)2月の兵乱に仏閣は炎上した。天正8年(1580)の指出しに際して高三百石であったが、豊臣秀吉の時代には全く寺領を没収された。しかし慶長7年(1602)徳川家康は寺禄百石を楊本庄長岡から寄付させた。兵乱などで焼亡あるいは破壊されるまでは、本堂のほか五重塔、十羅刹堂、真言堂、経蔵、宝蔵、宿堂および寺中坊舎四二坊ほか客坊、浴室などがあった。現在境内には、本堂、大師堂、鐘楼門、大門、地蔵院本堂、庫裡などが伝えられている。
本堂は、永禄年中(1558~1569)に焼失、宝暦年中(1751~1763)から再建にかかり、天明3年(1783)8月に落成したもので、方七間の堂である。堂内の本尊、木造阿弥陀如来坐像、脇侍の観音、勢至の両菩薩半跏像及び増長・多聞の二天像は、いずれも重要文化財に指定されている。阿弥陀如来坐像・勢至菩薩像の胎内に、仁平元年(1151)の墨書銘があって、最古の玉眼仏とされている。毎月21日は弘法大師のご命日で参拝者が多い。
木造勢至菩薩像(重要文化財)
木造観音菩薩像(重要文化財)
国指定重要文化財 旧地蔵院本堂並びに庫裡
旧地蔵院の本堂と旧普賢院の庫裏は江戸時代初期の建物で、現在は廊下によって結ばれている。本堂は正面三間、背面二間、梁間二間の小堂で檜皮葺の屋根と唐戸、草花模様の蟇股の建築様式が美しい。堂内には普賢延命菩薩像と地蔵像を安置している。
庫裏は客殿の機能を併せ持ち、杉川葺の屋根は一重に葺かれて簡素な外観を呈している。
国指定重要文化財 楼門(鐘楼門)
天長2年(825)弘法大師創建のままと伝えられるが、下層部は数次の修繕を経て、鎌倉から室町時代の様式を残している。
この楼門は桁行一間、梁間一間、屋根入母屋造柿葺(こけらぶき)の鐘楼を兼ねている。上層は三間二間の吹放しの珍奇な建物である。
国指定重要文化財 長岳寺五智堂(真面堂)
長岳寺の西方約850メートルの境外地、上街道の近くに五智堂が建っている。構造は方一間、単層屋根宝形本瓦葺(たんそうやねほうぎょうほんかわらぶき)である。奈良朝の頃、善無畏(ぜんむい)三蔵という人が創建したと伝えられている。どこから見ても正面なので真面堂とも、支柱を除けば四方吹放しとなるから傘堂とも呼ばれ、形が小さいのでマメ堂ともよばれている。中央の太い心柱の上方に五智如来をまつっている。鎌倉時代の建築として、明治41年4月23日重要文化財として国の指定を受けている。
この種の建物は珍しく、江戸時代の好事家曉晴翁も「雲錦随筆」のうちに傘堂のことを書いている。今はないが、江戸時代には床が張ってあって旅人の休息所になっていたという。
中心に太い柱が立っていることから、宝塔の古材によって組み立てられたことも考えられる。
更新日:2022年10月05日